丹生川上神社3社のうち上社だけ未参拝でした。
不思議なもので2社残っている時はそれほど気にならなかったけど1社のみというのは気持ち悪いもので今日参拝しに行ってきました🚗
本殿は大滝ダムの建設で水没したため平成10年に現在地に移されたと。
境内からは山々の緑が美しい🌲。結構参拝者がいました。
帰りは国道169号線沿いの史跡やダムに寄り道しつつ途中柿の葉寿司を買って帰宅。
これで3社の参拝済んでスッキリ😃。丹生川上神社上社へは医院からですと車で1時間半ほどです。

丹生川上神社上社

御首載石(みくびのせいし) 自天王の御首と神璽(三種の神器の一つである八尺瓊勾玉のこと)と遺品を安置し、ご冥福を祈ったと伝えられる大岩。 ただし、伊勢湾台風で流されてしまい、その後の碑も大滝ダムで移転させられ現在地に。 自天王とは後亀山天皇の後裔で南朝の再興を願いこの地で立った後南朝の天皇。 自天王については、話が長くなるので興味ある方は御自身でお調べを🙇。

ダム底に沈む集落は、むかし寺尾村塩谷村と呼んでいた。 長禄元年十二月二日南朝の後胤で南帝となるべき自天王の宮を足利幕府の密命を受けた赤松家遺臣らによって上北山村瀧川寺北山御所で襲撃し、宮の御首と神璽を奪って京都に逃げ帰ろうとした敵集団を迎撃せんとこの地に集った川上郷士との間に激しい戦いが行われた古戦場跡です。 水没した塩谷川岸に陰岩、対岸寺尾の国道沿いに腰掛岩があり、この腰掛岩に休息中の敵将中村貞友らを、郷士の中で弓の名人と言われた大西助五郎ら、陰岩から強弓をもって射殺した。また残敵も郷士らによって討ち取り御首及び神璽を奪還した。時正に十二月五日の夕暮れであった。 郷士たちは奪還した御首級神璽及び遺品を岩の上にお祀りし地に伏して慟哭、南朝の再興を誓いあった。 この史実を長禄の変と呼び延元元年南朝創始の年を去ること百二十二年、後南朝の御血統はここに断絶するにいたった。郷民協議のうえ宮の無念を偲び毎年二月五日の朝拝の儀が行なわれ今も絶ゆることなく続いている。長禄の変以来五四〇年ここに碑及び碑文を遺記し後世に永く伝えるものなり。

ダイワハウス創業者の生誕地

大滝ダム

ダムを眺望出来るタワーのようでしたが入れませんでした

吉野林業の中興の祖、造林王・土倉庄三郎(1840年(天保11年)~1017年(大正6年))の功績を讃えて1921年(大正10年)に作られた「土倉翁造林頌徳記念」と彫られた岸壁碑文

三井財閥と並ぶほどの莫大な財産を得たがかなりの篤志家で特に教育関係に寄付。 同志社大学や日本女子大学の設立にも協力。

大滝割滝 明治初期に土倉庄三郎によって木材の筏による搬出のため岩を割って吉野川を改修