小雨降る中、京田辺市の一休寺へ行ってきました🚙
一休さんが住まわれて余生を過ごした寺です。
見応えあるお寺でした、そしてつくづく思うのが京都の寺は庭が綺麗でお洒落です🤩
ちなみに善哉は檀家が持参した小豆汁を飲んだ一休さんが「善き哉(よきかな)」と言ったことが語源とか。

1456年~1481年に一休さんが住んでいました。 大徳寺の住職になってからもここから通われていました😮。

浴室 1650年 重文

浴室 1650年 重文

本堂への道 直ぐ右手に一休さんのお墓

一休さんのお墓 一休さんは後小松天皇の子供なので菊の御紋 宮内庁が管理しています 後小松天皇は南北朝を統一した天皇です

一休さんのお墓 菊の御紋越しに向かいの建物内に卵型の石碑がある 庭は村田珠光の作庭と伝えられている

方丈 1650年 前田利常により再建 重文 方丈の向かって左手にトイレがあったのですが、中は近代的トイレでした。後で気付いたのですがその建物(東司)も重文でした、油断してました😆。

方丈

方丈 庭は国指定名勝

方丈 左手の建物は一休さんのお墓 右手の建物は一休さんの住まい(虎丘庵) 最後の10年ほどは大阪の住吉で出会った森女(しんにょ)と呼ばれる30歳ほど年の離れた盲目の女性と暮らしていたそうです。 自身のお墓は生前の82歳時に造り、隣の虎丘庵から亡くなるまでの約6年間眺めながら暮らしていたことになります。虎丘庵は非公開。

方丈

方丈

本堂 室町時代 重文

本堂 室町時代 重文

宝蔵にて 一休さん自画像

宝蔵にて 一休さん自筆

宝蔵にて  お宝🤩

正月に髑髏をのせた杖で歩いていたと 年を越せたことは良いことだがそれだけ死が近づいたのだという事を示したとか😮

真ん中歩きました😅

六角義賢って信長の野望で見たような

意外ですが一休さんは21歳の時、50歳過ぎの時に自殺を試みています 繊細な心の持ち主だったようです

鐘楼 1650年 重文